ご存知の通り私は習い事を沢山やっている。
日本舞踊に始まり小唄、端唄、常磐津、義太夫、習字、かっぽれ…。
今一番ハマってるのが『義太夫』と『習字』である。
そもそもなぜ邦楽を始めたかというと、私が敬愛して止まぬ、故古今亭志ん朝師匠が『君は声の幅が狭いから常磐津あたりやった方がいいよ』と二ッ目の頃に勧めて下さったのがキッカケで、すぐに電話帳で常磐津の師匠を探した。
ウチの比較的近所の師匠を探し当てて電話すると『僕はお教室を開いてないけどいい人を紹介してあげる』というので紹介されたのが常磐津初勢太夫という師匠だった。
当時は弟子は私とそれからプロの卵の人とふたりだけ。
毎月一生懸命通った。なかなか進歩しなかったけどね。
それから弟弟子の金八と金太(現金也)、金兵衛も加わり、プロの卵も5人位入門して大所帯。
その中でも私は一番弟子!!
でも、全然進歩しなかったけどね。
当時、私は努力しても努力しても認められず、本気で廃業を考えもしたし、朝、目が覚める自分を恨めしくも思った。
その最中、大きな声を出して稽古している間は陰鬱な気分を晴らせる貴重な時間だった。
しかし、師匠もプロの部の弟子が増えたり歌舞伎座からお呼びが掛かるようになったりで忙しくなって2~3ヶ月に一度のお稽古と回数が減ってしまった。
まあ、早い話が噺家の部は見捨てられたのだ。
仕方ないか…、まるっきり進歩が見られなかったからね。
しかし、常磐津を稽古したお陰で落語の中に都々逸を口ずさむシーンがあるとお客様から拍手を頂戴することも多くなった。
大きな収穫だ。
そんな訳で常磐津を約10年やって『義太夫』に乗り換えた。
「なぜ義太夫をやる気になったか」というと、芝居噺に手を出したかったからで、最近ネタ卸した『淀五郎』や『中村仲蔵』、『豊竹屋』をやれるのはこのお陰だ。
義太夫とは元々人形浄瑠璃(文楽)のセリフ、状況説明を担当する。
歌舞伎はセリフの部分を役者が喋るのだ。
江戸時代、竹本義太夫という名人が生まれ、この人の語り口が義太夫節となったのだそうだ。
三味線も常磐津や小唄と違って太棹三味線、息をするところまで細かく決まっているし、人物設定なんかは落語よりやかましい。
『この人はおじいさんですから顎をガクガクさせて低い声でゆっくりと…』とか『女の人の年齢をもう少し高くして…』といった按配。
噺の中の人物よりも自分が出過ぎていた私の落語に大きな変化を与える結果となった。
それに声も通るようになったしね。
なにより義太夫を練り込んだ『掛取万歳』という噺で芸術祭賞と国立演芸大賞まで貰って、もうモトは充分取ってしまった!!!
亡き五代目小さん師匠は『刀は砥いで待て』とおっしゃっていた。
『戦はいつあるか分からないんだ。いざって時に刀が錆びていたらダメなんだ』と。
しかし、いつあるかわからない戦のために刀を研ぐのは本当につらい。
本当に抜く時がくるのだろうかと腐りそうにもなる。
「でも砥いでいてよかった」、とも思うし「これからも砥ぎ続けにゃいかんな…」とも痛感する。
ぼうふらも 人の血を飲む蚊になるまでは 泥水飲みのみ 浮き沈み…

