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美味いんだ


あけましておめでとうございます。

昨年も金時をご贔屓賜りありがとうございました。今年も倍旧のお引き立てを宜しくお願いします。


私の暮から正月はどんな按配だったかといいますとクリスマスの前前日、うちのカミさんが『金八さん彼女いるのかしら…』というので 『じゃあ、試してみよう』ってな事になって金八にいたずら電話。

「金八?クリスマスは何やってんの?ウチで鍋やるけど来る?」

「いえ、全く予定はありませんので伺います!」 ああ、いないんだ…。

しかしやるといってしまった手前、やらない訳にいけない。

そこで金兵衛、金翔、時松にも声を掛けると同様の答え。

みんな女には無縁らしい。寂しいやつらだ。


さて、シャンパンで乾杯。声を揃えて『メリークリスマス!』 

世界で一番ムサいクリスマスパーテイの始まりだ。クリスマスだから鶏の水炊きにしたらみんな良く食べた!2kgの鶏肉がアッというまになくなった。


28日は大掃除。弟子達と手分けをして片付け。狭い家だがけっこう時間が掛かる。

そして生まれて初めて障子貼りに挑戦。思いの外うまくいって大満足だった。

それが終わると金八、金也、金兵衛も合流し、錦糸町のみつまささんで恒例の忘年会だ。

牡蠣鍋と焼酎の蕎麦湯割り、これが美味いんだ!ボトルが3本空いた。そして最後に蕎麦!みつまさの蕎麦は本当に美味い!


この錦糸町の忘年会、前回は金八が壊れて錦糸町の駅の券売機に並んでいたら前にいた知らない女性の髪の毛の中に顔を突っ込み、顔を横に振りながら匂いを嗅ぎ始めたのだ。

当然女性は絶叫、彼氏は激怒、金兵衛が代わりに土下座して事なきを得た。

当の金八は何が起きたのか全く分からない様子、くれぐれも幸せな奴だ。


明けて元日。朝9時半に新宿の親父のうちの集合してお雑煮を食べる。

昔は目白の小さん師匠のお宅や志ん朝師匠のお宅を若手が挨拶にグルグル廻って一日に50人位の来客があったが今は10人程度。

うちの親父が死んだらお正月のこういう風情もなくなってしまうだろう。

寂しいもんだ。

しかし今年は幸先良く一月中席の鈴本は中トリ!(中入り前に上がる名誉な出番です)二月上席は鈴本のトリ。前回から僅か半年後にまた頼まれたトリ、大いに張り切っています。

ホームページの表紙を印刷して持参くだされば前売り料金の¥2200でご入場頂けます。

本年も宜しくお願いします。


<粗忽の釘>の陣!


「金時寄席の案内ありがとう。ネタ『鰍沢』は良しとしてもうひとつが『粗忽の釘』とはなんだ。手を抜くもんじゃあない!」

というお叱りのお手紙を頂いた。

この『粗忽の釘』という噺、確かに前座噺に毛が生えた程度のネタでそれ程大ネタではない。それをあえて独演会で出すのは違うのではないか?とおっしゃりたいのだろう。

なにも手を抜いているわけではない、しかも二席ともネタ卸なのだ。

初めて高座に掛けるというのは非常に恐い。どこでどういうウケ方をするかわからないしペースもわからない。

とても勇気がいるのだ。

それに言わせて頂ければ人情噺より滑稽噺の方が数段難しい。よく考えてもらいたい。

喜怒哀楽の中で泣かせたり悲しませる方が簡単だ。楽しませたり笑わせる方がずっと難しい。それに人情噺をやった方が「いや~、泣かされましたよ…」なんて言われてけっこう評判がいいことが多い。

ある程度の話術さえあれば人情噺の方が楽な一面がある。本を素読みにしたって泣けるもんに節をつけるんだから。


親父も「寿限無」が一番難しい、と言ってたし先代の金馬師匠はよく『子ほめ』という代表的な前座噺でトリを勤めてらした。

物凄い力だ。

先代の小さん師匠もこれまた前座噺の名作『道灌』で寄席をハネてた。

その噺で客を満足させてしまうんだから素晴らしいと思う。しかもそでで聞いている我々が思わず笑ってしまうんだから落語は凄い。

この手紙を下さった御仁、落語にはかなり詳しい方であるが、長講一席とか大ネタとか珍しい噺をしていると「こいつは勉強してる」と思う方で先日も、とある二ッ目が前座噺をやったら客席から大きな声で「真打も近いのになんでそんな噺をやるんだ!真打を返上しろ!」と怒鳴って他のお客様から大顰蹙を買ったり、黒門亭で騒いだりといろいろある方だ。


まあ、人それぞれだから色んな考えがあって然るべきだが客席から怒鳴るのはルール違反だと思う。

○○さん、落語家にとって一番難しいのは滑稽噺だし、みんなが知っている噺で満足させられれば凄い事なんですよ。

落語通は認めますがちょっと違うんじゃぁないですか?

滑稽噺をきっちりやる、ってのはほんとに大変なんですよ。


情が深いってェ!


柳家小せん師匠が亡くなった。

戦争に出征した最後の落語家である。


私は噺をひとつ教えて頂き仕事にも連れてってもらったこともある。

軽い飄々とした感じの高座で寄席には欠かせない人だった。

大体寄席はひと高座15分位。だが小せん師匠は10分しかやらないので小せん師匠の前は少しみんなで延ばしてやったもんだ。

この10分高座で客をいつも大爆笑させるんだから大した落語家である。


戦争中は今のベトナム、当時の仏領インドシナへ出征し航空写真兵をしていたそうだ。

仏領インドシナは平和なもんで、ひと月に二度か三度飛行機に乗って写真を撮りに行くだけ終戦まで敵には一度もお目に掛からなかったそうだ。

その上、宿営地の近所の乾物屋の娘とデキてしまって子供までもうけたと言う。


平和のうちに終戦、進駐軍がきたのは昭和22年になってからだったそうで、それまでノンビリと楽しく暮らしていたが、とうとうオランダ軍が飛行機でやって来た。

オランダ軍の兵士は女連れでしかもヘベレケに酔っ払って飛行機を降りて来て「飛行機の中を掃除しておけ!」と命令されて中に入ると吐瀉物だらけのゴミだらけ。

「オランダ人ってのはだらしがないんだな…」と思うのと「ああ…日本は本当に負けたんだ…。情けない…」としみじみ感じた、と酒を飲みながらおっしゃっていた。

その後無事復員。東京の惨状を見て唖然とした。

「これなら帰ってこないほうが良かった…」 


その乾物屋の娘はどうしたんですか?と聞くと「日本に帰ると告げるとニコニコ笑いながら子供を抱いて港まで見送りにきたよ。もうちょっと泣かれたりとかされるかと思ったが拍子抜けしたよ」とのこと。


戦争に行きながら本当に辛い体験をなさった方もいればこんな運のいい人もいるんですなぁ。


同じ戦争に行った夢楽師匠なんざシベリアに連行されて極寒の中で強制労働。

女がいないから馴染みの羊で性欲の処理をしたそうで、いざ復員の時はその羊が港まで見送りに来たという。

こっちから羊に手を振ると寂しそうに「メェ?!」と鳴いたってさ。

ホントかどうか…。してみると人間の女より羊の方が情が深いのか?

すると小せん師匠は、「毛深い方が情が深いってェからね!」大笑いした。


とぼけたフラ(生まれつきの面白い雰囲気)があって最後まで爆笑王だった
小せん師匠、どうか安らかに…合掌


すごいよなぁ!


いや?、今年の高校野球は面白かった!

あまり下馬評では評価の高くなかった早実の優勝を誰が予想しただろうか。

やはり野球は面白い。

私の子供が野球をやっていて今、羽村シニアという硬式のチームでやっている。

この羽村シニア、なかなかの名門で、実は今年の日大三高のキャプテン、堀越の4番、帝京高校のキャプテンもうちのシニア出身で「先輩が甲子園に行くんだから…」というのでうちの子もみんなと一緒に車中一泊で甲子園に応援に行ってきた。

やはり生の甲子園は刺激が強かったようで、「自分も出たい!」と思ったようだ。

この帝京のキャプテンの野口君、日米野球の代表にもノミネートされたが最終選考で落選したそうだ。残念だねェ。


なぜ羽村なんという遠いところのチームに入れたかというと、確かに硬式のチームは私の住む世田谷のチームもあるが、実際練習をやるのは稲城とか奥多摩とか毎週違うのだ。

そこへ送り迎えするのは大変である。

そこいくと羽村シニアは立派な専用グランドを持っているので電車で通うことが出来る。とはいっても朝は5時半の電車だけどね。


また指導者が信頼できるのが一番だ。

監督はじめコーチの中の5人は私の堀越高校時代の先輩と後輩だから気心が知れているしほかのコーチも熱心で信頼の置ける方々だ。

元監督はこのコーナーでも書いたが「吉沢」という同級生で立派な選手をたくさん輩出してきた。

だが一昨年、スキルス性の癌と言うやつで、まだ中学と小学校の子供をおいて他界した。


吉沢とは私が野球部の寮に入った時同室で色々教えてもらった。

とくに思い出として残っているのは、私はなんでもかんでも親掛かりだったのでボタンを自分でつけられなかった。

それを吉沢は器用にユニホームのボタンをつけるのを見て「あ?俺はこんなんじゃいかん…!」とショックを受けた。

寮では勿論、掃除洗濯、食事の支度、食器洗いすべて自分だから、上げ膳据え膳で育った自分にとってこの経験がなかったらいまの自分はないな、と思う。

だから色々教えてくれた彼には今でも心から感謝している。


その彼がこのシニアを引き受けた時には選手は15人だったが今では100人を越す大所帯。

去年は遂に全国優勝を飾った。彼には本当に頭が下がる。

その遺志を継いだ現監督も同級生だが高校時代は野球部ではなかった。

しかし野球に対しては実に造詣が深いし熱心だ。


大会の日は朝3時半に集合して打撃練習してから試合に行くんだからすごいよなぁ!


彼から息子が入部するにあたって言われたのは「俺とお前とは友達だから実力が同じくらいの子がいたらお前の子でなくそっち使うよ。」偉いもんだ。

それだけ選手がいれば気苦労も多いだろう。この一言でこのチームを信用した。


任せたからには一切口出しはしないつもりだ。頼むぜ、飯塚監督!


鴨せいろ!


いや、今年の夏は忙しかった!とにかく休みがない!

7月18日に国立演芸場での独演会が終わり、いつもならそれからしばらく弛緩するところだが…。

7月21日から30日まで池袋演芸場でトリ、8月1日、10日が今度は鈴本演芸場でトリ、11日から20日は浅草演芸ホールで住吉踊りの会、一日於いて22日は金八と金也と3人で始めたネタ卸の会『ゴールドラッシュ』。

ここまで休みがないのだ。

例年、夏というとほとんど仕事もなくブラブラしていたもんだが今年の夏は気違いみたいだった。

池袋のトリはネタ出ししてなかったので毎日高座の三時間前には家を出て今日やるかも知れない噺を三席ぐらい歩きながらブツブツさらって大体世田谷の自宅から新宿まで、もしくは新宿から池袋まで。

上野のときはネタ出ししてあったのでその噺だけさらえばいいからまあまあ楽だった。

それでも1時間は歩いて稽古した。トリを勤めてやっと一安心と思うと住吉踊り。

これは何が大変かというと、この時期有り難い事にお客様は午前11時から詰め掛けて下さる。

私の高座は11時30分から。そして住吉踊りは3時30分から。高座が終わってから毎日4時間、時間をつぶさなければならんのだ。

例年は漫画喫茶行ったり映画を見たりしていたが今回は『ゴールドラッシュ』があるから。その稽古で毎日、浅草から錦糸町まで歩いている。

なんで錦糸町かって??

おいしい蕎麦の‘みつまさ’があるからよ!大将がいい人で行く度に大好物の‘鴨せいろ’をご馳走してくれるのだ。

またこの‘みつまさ’の鴨せいろが絶品なのだ!!

皆様も是非一度ご賞味あれ!

例によって歩きながら名所、神社仏閣などを見ている。

前回の『ゴールドラッシュ』で中村仲蔵という噺をやった。

その中に柳島の妙見様が出てくるので一応ご挨拶をしておこうと思い、ECセンターからも程近い能勢妙見様に参拝した。

ここはかの勝海舟の父、小吉が息子の病気が平癒しますように、と願を掛けたことで有名だそうだ。

境内に入ると勝海舟の像がある。

「今度、噺の中で使わせて頂きます…」と挨拶をし、成功を祈願した。

ご利益のお陰かうまくいったが噺の中に出てくる妙見様は押上の駅前の方が本当だった。

しまった、間違えた!しかしこちらはビルになっていてあまりご利益はなさそうだったからまあいいや…


もう勘弁して!


下の弟子の時松がお陰様で二ッ目に昇進した。三年弱というから早いもんだ。

私は3年半だったが私より先輩の今の円太郎兄さんなんかは6年以上前座だった。

私の時はすぐ下に九太郎(現花録)がいて「おじいちゃん(小さん師匠)が元気なうちに早く昇進させよう!」というので私もトコロテン方式で比較的早くなれた。

花録さん、小きんさん、私の3人で理事の師匠方のお宅へ挨拶に行って、「予定より早く終わったからどうしよう…、そうだ!みんなでディズニーランドに行こう!」ということになった。

当時花録さんはまだ17歳、ディズニーランドへ着いたらはしゃぐはしゃぐ!

「兄さん、早くこっちこっち!」 
「九ちゃん、ちょっと休ませてよ…」 
「ダメダメ!早く早く!!」 
クタクタになった。

当時‘キャプテンEO’というマイケルジャクソンのパビリオンが開館したばかりで待ち時間は2時間だという。

「九ちゃん、あきらめようよ…」
「兄さん、何を言ってるんですか!?2時間位待てなくてマイケルに会う資格なんかありませんよ!」 
別に会わなくても全然私は構わない。

しかし彼自身もブレークダンスをやってるから見たくてしょうがなかったようで2時間後出てきて 
「ね!格好よかったでしょ!もう一回見ましょう!」

「もう勘弁して!」

墓石の看板なんかに顔出している場合じゃないよ、九ちゃん!

この時松、一度大失敗をした。私の独演会の当日、今日やる噺を弟子二人の前でさらっている時に、こともあろうかこいつが居眠りを始めたのだ!

客にでさえ寝られれば腹が立つのに僅か2mの近距離で舟を漕ぎ始めた。こいつは馬鹿か、とてつもない大物なのか 目が点になった。

こいつの居眠りは今回が初めてではない。私が結婚式の司会を頼まれた時「いずれこいつも頼まれることもあるだろうし見させておけばよかろう…」 と思い連れてった。

そうしたら居眠りだ。その時も怒ったら駐車場で土下座して、
「もうしません、もうしません、すみませんでした。」
と言っていた。
    
全く独演会の前でこっちもピリピリしている所にこの有様だ。すぐに奴の鞄を窓から外へ放り出し、 
「そんなに眠かったら一生寝てろ!!!」と大激怒。

当然破門、と思ったが落語協会の事務局長や他の師匠のとりなしもあって一ヶ月の謹慎の末、戻してやった。自分でもよく我慢したと思う。

今度やったら即破門だよ、時松。

しかしわからんもんでその不安定な気持ちで臨んだ独演会が芸術祭賞をもらうことになったんだから。

こいつの要領の悪さは天下一品、しかし陰日当なく働くところが救いである。まだ噺がどうこうというレベルではないが頑張ってほしい。応援宜しくお願いします。


おっかねえ?!


本当かどうかは知らないけれど…。

魚河岸の一角に奇形魚の販売コーナーがあるそうだ。そこにはいわゆる奇形魚、背骨が曲がっているとか、ヒレがないとか、見るも無残な形の魚が並んでいて値段は市価の10分の1だという。これを某チェーン店の仕入れ部が競って買っていくのだという。確かにそのチェーンは廉価で『本当にこんな安くて儲けが出るのか?』 と感じたことはある。

こういうカラクリとは…。そりゃあ刺身にしたり煮たりしちゃったらわかんないもんね。

以前、このコーナーで『見ぬもの清し』の中にも書いたがアメリカ産牛肉、やはりBSEの問題が発覚した。ない訳ないとは思っていたがやはり!だね。

後の解禁後、危険部位が混入していたことは記憶に新しい。何で全頭検査しないんだろう?業者の中には全頭検査が出来る体制を整えているのに農務省がやらせないという、何がなんだかよくわからない話だ。
週刊誌で読むところではアメリカは1999年以降、ヤコブ病の患者、犠牲者がBSEが原因かどうかの検査さえしてしていないそうだ。

ある医師に聞いたが医学会の常識としてアメリカにはBSE患者、死者は一万人を越えているという。おっかねえ?!

EUは随分以前からアメリカ産牛肉は禁輸措置が取られているんだと。これで仮にまた輸入再開なんて言ってって私は絶対食べません。

アメリカは日本人の健康なんか少しも考えてはいない、ということがよくわかった。なにを根拠に『もう安全です』なんて言えるのだろう。

しかし、禁輸措置が取られた時は‘牛丼が食べられなくなる、どうしよう’と日本中がパニックになったが慣れてみると何でもないね、豚丼も美味しいしカレーもいいし…。あの騒ぎはなんだったなんだ?

いくら気をつけていても危険な食品が口に入ってきてしまう、本当に怖い世の中だ。昔、金八がまだ故郷の根室にいた時、近所の方が道楽で下肥を使って本当の有機野菜を作っては金八の家に持ってきてくれてたがみんなそうっと廃棄していたそうだ。

「なんで?」と聞くと「当たり前じゃあありませんか!下肥の中にはトイレの洗浄剤が入ってるんですよ。危なくて喰えませんよ!」深く追求すると何にもたべられませんな。


打ち出の小槌


「昔の芸人ってのは酒飲んで吉原で行っておおいに遊んだんだよ。だから芸がよかったんだよ。今の連中は真面目過ぎるんじゃないかな…」


お客様の中にはこんなことをいう方がたまにいらっしゃるが冗談ではない。大酒飲んで酔っ払って女遊びしていい芸人になれるのならこんなに楽なことはない。

私だってそうしたい位。きっとそういう方たちは志ん生師匠の上辺だけを見て言っているのだろう。

故五代目古今亭志ん生師匠、吉原に入り浸り、関東大震災の時はイの一番に酒屋へ飛び込んだという。「地震のせいで明日から酒が飲めねえと大変だ!」酒屋の方はさっさと避難して志ん生一人、酒屋でヘベレケになっていたという伝説的な落語家である。

「志ん生の酒の話を聞いていると酒の匂いがしてくるようだった…」当たり前だ本当に飲んで高座に上がってるんだから。酔っ払って高座で寝てしまった志ん生師匠、前座が起こしに行くと常連の客が「寝かしといてやんなよ!志ん生の寝顔なんか滅多に見られないんだから…」粋な人がいたもんだ。

こんな一面だけを見てそう言うのかもしれないが、志ん朝師匠に伺うと「親父は本当は凄い努力家。気がつくと部屋へ行って天井見つめてブツブツ稽古してたよ。」とおっしゃってた。

若い頃は貧乏のどん底を味わい、それでも一生懸命努力なさっていたそうだ。

晩年、寝たきりになって医者から酒を止められたのに酒を飲みたがって仕方がないから家族は酒を水で割って与えていたという。「近頃の酒はどゥも水っぽくていけねなぁ…」ある日いつものように水で割ろうとした時、なんか虫の知らせで割らずに渡すと「やっぱり酒はうめェなぁ!」これが志ん生師匠の最期の言葉だった。


昭和の名人といわれた落語家、弟子達によくこんな事を言っていたそうだ。

「おめえたち、俺が今こうして楽できるのは若い時努力したお陰なんだよ。若い時人一倍努力すると年ィ取ってからそれが打ち出の小槌になるんだよ…。」

なるほど…打ち出の小槌ね!

将来の打ち出の小槌を手に入れんが為、努力しよう。でも生半可な努力じゃあ手に入らないんだろうな~


一陽来複様で小離れ?


皆様、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします!

皆様はどういうお正月をお過ごしでしょうか。

金時は二ッ目になり立ての頃は親父の家に29日頃から夫婦で泊まりに行って新年を迎え、 3日頃に引き上げてくる、という毎年の恒例でした。

やはり自分の家で新年を…という願いはなかなか叶えられなかった。

両親も頑固だし、どこか子供達を自分の支配下に置いておきたい、という願望を強く持っているし、やはり昔は賑やかだった正月を夫婦二人だけで…というのも寂しいのだと思う。

しかし、子供が独立してしまえばそれは仕方の無いことではないか。

一度勇気を奮って「今年は泊まらない」と言ったら烈火のごとく怒った。まだ二ッ目だし仕方なくそれに甘んじていた。なぜそんなに自分の実家に泊まるのがいやかというと、今の家は私が独立してから建てた家なのでどうも居場所が無い。

泊まる部屋も板の間なので硬くて寒い。することがない。「金時もまだまだ親父さんの庇護の元か…」と周りから思われる事もあったしねェ…

が、やがて転機がきた!


一陽来復様である!


以前、紹介したが早稲田の穴八幡様は多くの商売人達の信仰を集め、特に冬至から節分に配られる一陽来復様はその年決められた方角に向けて正しく貼らなければならない。

しかも、貼ることができるのは冬至、正月、節分の3日だけ。午前0時の時報とともにピタッと貼らなければならない。

一度貼ったら絶対剥がしてはいけない、万が一剥がれたらもう一度…というのはご法度。売り始めの冬至の日は午前2時から並び始める人がいるそうだ。一度冬至の日の午後に買いに行ったらそれでも2時間位並んだことがあった。

「これは冬至の日に貼るのはあきらめよう」ということになって25,6日頃買うことにした。それだと並ばずに買うことが出来る。貼るのは元日の午前0時。

ここに至ってやっと我が家で新年を迎える事が叶ったのだ!(長かったな~)


両親もさすがに神信心では致し方なし、となって苦節15年、やっと我が家で新年を迎えるに到ったのだ。きっと陰ではわしのことを色々言ってるとは思うけど子供は一生涯ずうっと側にいるものではないのだ。

薄情に聞こえるかもしれないが仕方無いじゃん。

それに大晦日だって元日だって兄弟、孫みんな集まるんだから、なにも泊まらなくても問題ないと思う。

この間、榎本所長と話をしたが、うちの母が「この土地はあたしたちが苦労して手に入れた土地だから死んだあと人手に渡るのは忍びない。建物の一部屋一部屋を兄弟4人で分割贈与にして兄弟達がまたこの建物に一緒に暮らせるようにしたい」なんて実現不可能なことを言っているのでホトホト困ってしまう。

何とか思いとどまってもらうよう言っているが…そんな事したらもめるぞ~!ねえ、榎本先生?


大きな収穫!!


ご存知の通り私は習い事を沢山やっている。

日本舞踊に始まり小唄、端唄、常磐津、義太夫、習字、かっぽれ…。

今一番ハマってるのが『義太夫』と『習字』である。

そもそもなぜ邦楽を始めたかというと、私が敬愛して止まぬ、故古今亭志ん朝師匠が『君は声の幅が狭いから常磐津あたりやった方がいいよ』と二ッ目の頃に勧めて下さったのがキッカケで、すぐに電話帳で常磐津の師匠を探した。

ウチの比較的近所の師匠を探し当てて電話すると『僕はお教室を開いてないけどいい人を紹介してあげる』というので紹介されたのが常磐津初勢太夫という師匠だった。


当時は弟子は私とそれからプロの卵の人とふたりだけ。

毎月一生懸命通った。なかなか進歩しなかったけどね。

それから弟弟子の金八と金太(現金也)、金兵衛も加わり、プロの卵も5人位入門して大所帯。

その中でも私は一番弟子!!

でも、全然進歩しなかったけどね。


当時、私は努力しても努力しても認められず、本気で廃業を考えもしたし、朝、目が覚める自分を恨めしくも思った。

その最中、大きな声を出して稽古している間は陰鬱な気分を晴らせる貴重な時間だった。

しかし、師匠もプロの部の弟子が増えたり歌舞伎座からお呼びが掛かるようになったりで忙しくなって2~3ヶ月に一度のお稽古と回数が減ってしまった。


まあ、早い話が噺家の部は見捨てられたのだ。

仕方ないか…、まるっきり進歩が見られなかったからね。


しかし、常磐津を稽古したお陰で落語の中に都々逸を口ずさむシーンがあるとお客様から拍手を頂戴することも多くなった。

大きな収穫だ。


そんな訳で常磐津を約10年やって『義太夫』に乗り換えた。

「なぜ義太夫をやる気になったか」というと、芝居噺に手を出したかったからで、最近ネタ卸した『淀五郎』や『中村仲蔵』、『豊竹屋』をやれるのはこのお陰だ。


義太夫とは元々人形浄瑠璃(文楽)のセリフ、状況説明を担当する。

歌舞伎はセリフの部分を役者が喋るのだ。

江戸時代、竹本義太夫という名人が生まれ、この人の語り口が義太夫節となったのだそうだ。


三味線も常磐津や小唄と違って太棹三味線、息をするところまで細かく決まっているし、人物設定なんかは落語よりやかましい。

『この人はおじいさんですから顎をガクガクさせて低い声でゆっくりと…』とか『女の人の年齢をもう少し高くして…』といった按配。


噺の中の人物よりも自分が出過ぎていた私の落語に大きな変化を与える結果となった。

それに声も通るようになったしね。

なにより義太夫を練り込んだ『掛取万歳』という噺で芸術祭賞と国立演芸大賞まで貰って、もうモトは充分取ってしまった!!!


亡き五代目小さん師匠は『刀は砥いで待て』とおっしゃっていた。

『戦はいつあるか分からないんだ。いざって時に刀が錆びていたらダメなんだ』と。


しかし、いつあるかわからない戦のために刀を研ぐのは本当につらい。

本当に抜く時がくるのだろうかと腐りそうにもなる。


「でも砥いでいてよかった」、とも思うし「これからも砥ぎ続けにゃいかんな…」とも痛感する。

ぼうふらも 人の血を飲む蚊になるまでは 泥水飲みのみ 浮き沈み…


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